鶏を屠殺して、解体するワークショップに行ってきました。
いろいろな感情の動きはありましたが、やったことを書き出すとこれだけです。
- 鶏を捕まえる
- 包丁で首を落とす
- お湯にくぐらせる
- 羽をむしる
- 解体する
ワークショップを申し込んだものの、できるかどうか不安でした。
どんな気持ちになるのかも、わからない。もしかすると2度と鶏を食べられないかもしれない。だけど、それでもいいと思いました。
こんな体験をしてくる、と人に話したら、残酷だと言う人がいました。
だけど、それを誰かが毎日やっています。いざ自分でやると「残酷だ」と言われます。
でもその言葉を僕に言った人も鶏肉は食べるのです。そんな都合のいい話があるかと思いました。
なぜ屠殺のワークショップに行ったのか

将来的に、ヤギと暮らしながら、もっと自給的な生活をしてみたいと思うことがあります。
狩猟や罠猟にも興味があります。
実際にやるかはわからないけれど、もしそういう生き方を選ぶなら、自分が"殺す側"になれるのかは知っておきたいと思っていました。
だから今回、鶏を屠殺して解体するワークショップに参加しました。
首を落とす

鶏を捕まえるのすら大変でした。
抱いていると、体温が温かい。今からこれを殺すんだ。包丁で首を落とすんだ。自分にできるのか、と思いました。
包丁でスパッとはいかないので、ノコギリのように前後に動かして、力を入れてやる。そう教えてもらいました。
ためらってはいけない。一息に行く方が、中途半端に苦しめないのでは、と考えていました。
左手で頭を押さえて、首がすぼまらないように軽く引っ張りながら、エラのラインに包丁を入れます。
いざやってみると刃が全然入りません。
かなり力を入れてグググっと刃を首に入れていきます。血が出てきて鶏が暴れます。
ゴシゴシと前後に動かしながら、骨の隙間に包丁を入れました。
頭を切り落とすと、左手の中には、鶏の頭が入っています。
手のひらの中で動いているのを感じました。
手の中で、生きていないものが動いていました。
今度は妻が首を切るので、僕は体を押さえました。切られている間、暴れるように動くのをしっかりと押さえます。
そりゃ、信じられないくらい痛いんだろうから、暴れますよね。
首を切り離されたあとも、身体は動いていました。
首を下に逆さにして足を持ちます。
血が滴って、羽は羽ばたいていました。
赤黒い頸椎が、すぼまったり伸びたりしていました。
命のしぶとさを感じました。
アリのような小さい虫は今までたくさん殺してきました。
だけど、脊椎動物になると、それがすごく生々しく残酷に感じるのです。
同じ命なのに。大きければ大きいほど、残酷に感じてしまいます。同じ命のはずなのですが。
頭の中に、ストレスのガスが充満してくる

首を切り終えて、動かなくなった鶏を手にしているとき、特に何も考えていませんでした。
自分にできた、みたいな達成感もなく、かといって、やってしまった、みたいな罪悪感もゼロではないけど、そこまででもありませんでした。
なのに、頭の中にストレスのガスみたいなものが充満してくるのを感じました。
嫌な仕事、重大なミス、プレッシャー、敵意を向けられたとき、僕の頭に充満してくるやつです。
すごく仕事が辛い時に感じるやつ。最近は、それがひどくなると目眩になります。
それで頭が満たされました。
そこで、「あ、嫌だったんだな」と思いました。
頭で考えていなくても、嫌だったんだ。ストレスだったんだ、と。
自分の意志とは別のところで、身体が反応している感じでした。
あとは作業になる

羽をむしる
ここからは作業でした。熱いお湯にくぐらせて、足の鱗を取って、羽をむしります。
なかなか綺麗にむしるのが大変で、工場では自動化してるのかな、とか考えていました。
これを仕事にしている人は、当たり前になっているのかな、そんな人でも最初は嫌だったのかな、とか考えました。
首元の血で赤くなっているところの羽をむしるのは少し嫌でした。
さっきの動いていた赤黒い頸椎のことが思い出されて、何度も頭で再生されていました。
でもむしるしかないのでむしりました。
首を落とした後、羽をむしるのは、メンタルではなくフィジカルが疲れる、みたいなことを聞いていたんですが、そんなことはありませんでした。
足腰は疲れたけど、頭に「嫌だったな」という印象を反芻していて、頭も疲れました。
部位に切り分ける
部位別に解体していきます。
刃を入れて開いて、もも肉などに切り分けると、スーパーで見ている肉になっていきます。
足を逆に折り曲げたり、大腿骨を骨盤から外す感覚は嫌でした。無理に力を加えて骨折や脱臼をさせているので。
食べるときにやっていることなのに。
その一方で、アキレス腱を引っ張ると指先が動いたり、身体の仕組みには感心しました。
また、胸肉を切り分けるのはすごく難しかったです。
無駄なく肉を切り取って、しっかり無駄なく食べる。それが供養なのだと思いました。
モミジ、もも肉、手羽元、手羽先、カワ、胸肉、ささみ、ハツ、砂肝、ぼんじり、キンカン、レバーに切り分けました。
食べる

帰宅して調理しました。
当日と翌日で作ったのは下記です。
- 鳥もつ煮(ハツ・レバー・砂肝・キンカン)
- 鶏皮、ぼんじりの塩焼き
- もも肉の赤ワイン煮(コック・オ・ヴァン)
- 手羽元・手羽先・モミジの塩鍋
- 胸肉・ササミのサラダ

鳥もつ煮は、捌いた当日だからか臭みがゼロでした。レバーが苦手な妻も美味しいと言って食べていました。

鶏皮は、普段食べているものと弾力がまったく違いました。
塩だけで味付けしたのに、すごく肉肉しい。その肉肉しさが、さっきまで生きていたものの力強さみたいに感じられました。

肉の弾力は、これまで食べてきたものと比べものになりませんでした。

「これ骨?」と思うほど硬い。
バチン! ブチン! と弾けるような弾力で、パンパンに空気を入れたゴムボールのよう。

ブロイラーではなく、卵を産む頻度が少なくなった産卵鶏を食べたのは、たぶん初めてです。
柔らかいことが美味しいとされがちだけれど、味が濃くて、美味しく感じました。
ただ、これは、自分の手で殺めたから美味しく食べてあげなきゃ、という気持ちが働いているのかもしれません。
まとめ:わからないままで終わる
今回は鶏を屠殺して解体するワークショップに行ってきた様子を書きました。
「命のありがたみがわかった」とか「命に感謝しよう」とか、そういう感想は浮かびませんでした。
首のない鶏の足を持って逆さにしているとき、落ちる血を見ながら、真っ赤な頸椎が動いているのを見ながら、頭にストレスが充満したことを何度も思い出していて、
「嫌だったんだな」
「慣れれば作業になるのかな」
「人を殺めることはとてもできないな」
そんなことを考えていました。
またやりたいかは、わかりません。
鳥が食べられなくなるかと心配していたけど、それはありませんでした。
これからも肉は食べると思います。
ただ、やっぱり生きているものを殺めるのは嫌だったな、と思いました。
それ以上のことは、いまのところ、わかりません。

